失われた記憶を取り戻すために
初出:Twitter連載/2020.5
2020.05のコロナ待機の時に書きはじめたやつ。
思いつきで進めたので前半グダグダです。


1.隣で誰かが眠っている。少年。でもとても美しい。絹のような茶色の髪、透き通るような肌。布団から覗く白い肩は女のそれと変わりない。触れようとするとその人はゆっくりと目を開く。視線が重なり、少し恥ずかしそうに微笑む。小さな唇が何かを伝えようと僅かに開く。言葉を待たずに夢は覚める。

2.「またこれかよ…」寝覚めの悪い夢にカミュは独りごちた。最近同じ夢を繰り返し見ている。正直不愉快だ。名前も知らないやつが毎夜毎夜夢に出て来るのも気味が悪いし、明らかに少年との事後を示唆するシチュエーションというのも気に食わない。女に困ったこともないのに、とコップの水を飲み干した。

3.だが本当は解っている。あの少年は今まで抱いたどんな女より自分の好みだ。それ故に不愉快なのだ。どんなに恋い焦がれようと名前を知るすべもなく、触れることも出来ず、ただただ焦らされるだけだ。あの唇に齧り付きたい、肌を重ねたい。だが叶わない。情欲を煽るだけの夢に腹が立つのも当然だった。

4.モヤモヤしたままカミュは仕事に向かう。学歴のないカミュが働けるのは建設業くらいだった。建設業と言っても、正確に言えば「足場屋」だ。足場を組み、解体する。たまにはライブだのイベントだのの華やかな現場もあるのだが、今日はビル工事の足場だ。鳶としては楽しい仕事だ、少し気が紛れる。

5.ビル上層の鉄骨を組みながらカミュは眼下を見渡す。数えきれない家やビルがひしめき合っている。この景色の中に一体どれだけの人が住んでいるのだろうか。その中にあの少年はいるのだろうか。「(まさかな…。)」あれは夢だ。存在する訳がない。そう思っても諦められない自分に呆れるしかなかった。

6.「おいカミュ、昼飯だぞ、降りてこい。」「わかった」煩悩を打ち払うように働けば、あっという間に昼になっていた。仲間たちとコンビニへ行きカップ麺とおにぎりで腹を満たす。肉体労働者にしては寂しい量だが金もないのだ仕方ない。食後に一服コーヒーを飲みながら、今後の話を話半分に聞いていた。

7.「来週は一般住宅の足場だ。3日間だ。屋根と壁の清掃をするらしい。」「一般住宅なんて珍しいっすね。残念だったなカミュ、鳶の見せ場はなさそうだぜ?」「別にいらねぇし。でも住宅で3日間なんて長いな。」「それがな、普通の家じゃ無いらしい。大邸宅って話だ。持ってく足場の数も桁違いだとよ。」

8.「駐車場も使っていいし、昼飯も毎日出してくれるって話だ。」「マジかよ!飯代あがるのありがてぇ!」「良い客だからな、てめぇら住宅だからって手ぇ抜いたりすんなよ?じゃねぇと次頼んでもらえなくなるからな。」「おう!」「来週の話の前に、まずは今日の現場だ。さぁて再開すっか。」「へーい」

9.カミュも持ち場に戻ろうとした時、同僚に声をかけられた。「なぁカミュ、明日合コンどうだ?」「断る。」「マジかよー。イケメン来るって言っちまったのに。つーか最近連れねぇよな。」「今金貯めてんだ。」「バイクか?」「ああ。」嘘だ。確かに貯金はしているが、合コンを断る本当の理由ではない。

10.少年だ。名前も声も解らないあの少年に囚われている。他の女に現を抜かせば、澄んだ目から涙が溢れてくるのではないかと、勝手に思い込んでいる。思い込みだと解っているのに。そう考えることを止められない自身を嘲笑して、カミュは再びひしめく街を見下ろしながら、黙々と鉄骨を組んでいった。

11.クタクタになって家に帰り、シャワーを浴びてから、ベッドに身を投げた。このまま泥のように眠ればあの夢を見ることもない。それは精神衛生上ありがたい。だが物寂しい。「会いたいんだか、会いたくねぇんだか…」布団をかけ、隣を見る。誰もいるわけがない。「いるわけねぇだろ、この世にな…」

12.翌週、件の一般住宅へ仕事でやって来た。一般住宅になぜ自動開閉式の門があり、庭園があるというのか。トラックやらハイエースを何台止めても邪魔にならない大邸宅だ。「俺んちのマンションより広いぜ…」「普通に60階建てくらい作れそうな広さだな…」呆気にとられつつ荷物の運び入れをする。

13.「これ本当に3階建てなのか?」「らしいぜ?1階が天井5mあるらしい。」「マジ、どんな金持ちが住んでんだこれ。」「なんでも財閥だとか旧華族とかなんかそういう家らしいぜ。」「はぁ、縁のねぇ世界だなぁ…」「違う世界で生きてるってのはこういうことだな」「おめぇら無駄口叩いてねぇで働け。」

14.カミュは足場の上で足場を組んでいた。文化遺産レベルの建物だ、うっかりぶつけでもしたら大変だ。それに集中していれば余計な事を考えずに済むと、気を引き締めようとしたのだが。ふと気配を感じた。仲間かと思ったが丁度誰もいない。気味悪く思い、視線を室内に向けたその時のことだった。

15.見つけてしまった。現れてしまった。今朝も見たのだ、見間違えることなどない。あまりにも柔らかいその髪は、結っても結ってもはらりと解けてしまう。白い肌、細い指。横顔から見える睫毛の美しさ。幼さが残る青年というべきか、大人びた少年と呼ぶべきか。カミュは、夢の少年を見つけてしまった。

16.少年は大きなテーブルにあれこれ資料を広げて、何かを見ながらペンを走らせている。襟足で僅かに結っている髪を無意識に耳に掛ける仕草に、見た目に不釣り合いな程の色気を感じる。此方の視線に気づく様子はない。カミュは真剣な横顔に魅せられていた。存在しないはずの人が、目の前に居る。

17.カミュの視線に気付いたのか、少年がこちらを見た。目が合う。窓の外に人が立っていることに驚いた様子だったが、それからふわりと笑った。それはあの夢の中の笑みと一寸も変わらない天使の笑みだ。少年は手を振ってくれたのだが、カミュはヘルメットのつばに手をやって会釈するしか出来なかった。

18.噂の昼食は、屋敷の食堂の中で振る舞われた。3000円はするであろう高級弁当だ。ありがたく頂くが、座りが悪い。「ここは結婚式会場かなんかなのか…?普通の家じゃねぇよ」「飯はうめぇけど、無駄に緊張するな…」「まるで夢見てぇだな。」「夢…」仲間達が感想を漏らす中、カミュは小さく呟いた。

19.これが夢だったらどれだけ納得のいくことか。夢の少年は自分の理想の少年だ。その理想を形にしたような存在が、本当にこの世に居るということになる。そんなこと有り得るか?無いだろ、これは夢だ。そんなことを考えていたせいで、高級弁当の味も良く解らなかった。少年の横顔が離れなかった。

20.食事の後、カミュはいそいそと持ち場に戻り、少年がいたはずの部屋を見た。しかし姿はない。「まじで夢とか、ないよな…」少年がいた部屋を眺める。カミュはその後も仕事の合間にチラチラと部屋を見たが、少年を見つけることは出来なかった。その日も、そして翌日も。まるで幻だったかのように。

21.あの少年を見ることもないまま足場を組終わった最終日のこと。責任者が依頼人らしい男と礼を言い合い、お互いに頭を下げあっている。3日間も昼をおごってくれた太っ腹な依頼人は、品の良さそうな精悍な男だった。その男が少し困り顔で切り出した。「実は折り入ってお願いしたいことがありまして…」

22.「お願い、ですか?」「ええ。うちの愚息が屋根に上がりたいといって聞きませんで。少しでいいので、足場にあがらせていただけないかと。」「構いませんよ。」「ありがとうございます。」ほら来なさい、と男が振り向いて手招きをすると、少年が嬉しそうに駆け寄ってきた。紛れもない、あの少年だ。

23.少年はカミュたちの目の前までやってきて、恭しく頭を下げた。「ワガママを言って申し訳ありません。」責任者が、いえいえ、散々良くして頂いたんですから、などと話しているのをカミュは聞いていなかった。聞こえなかった。あの、いつも聞けなかった、あの少年の初めて聴いた声だけが響いていた。

24.「おいカミュ。」突然呼ばれて我に返る。「ん?」「ちょっと屋根まで案内してさしあげろ。」「え!?」カミュは責任者と少年を交互に見た。少年は予備のヘルメットを装着中だった。嬉しそうにニコニコしている。「嫌だなんて言わねぇだろうな。」「…言う訳ねぇだろ。行ってくるぜ。」「頼むな。」

25.「よろしくお願いします!」「良いかイレブン、ワガママを言ったり、ご迷惑になるような事をしては駄目だからな。」「解ってるよお父さん。子どもじゃあるまいし。」「屋根に上がりたいと駄々をこねる時点で子どもだろう?」「むぅ」「皆さんお忙しいのだ、さっさと行ってきなさい。」「はーい!」

26.イレブン。あの少年はイレブンというのか。微笑ましい父子の様子を見ながら、カミュは空っぽだった少年の姿を組み上げる。名前はイレブン、声は中性的、良家の育ち。少しワガママを言う愛想のよい少年。毎夜のように見ているから知り合いのような感覚になっていたが、知れば知るほど知らない人だ。

27.「それじゃあ気を付けて。」「はい!いってきます!」2人は完成したばかりの足場へ向かった。「階段急だから気を付けて下さい。」カミュはぎこちなく少年を誘導する。意識すればするほど言葉がぎこちなくなる。だが意識するなという方が無理な話だ。少年の様子に目を奪われながら、先を行く。

28.「うわぁ高いなぁ…」少年はあえて鉄板の隙間から下を眺めている。「怖くないですか?何かあればすぐに言ってください。」「大丈夫です!高いところ好きなんです。」少年は笑い、まるでカミュの緊張を解そうとしているかのように話しかけてきた。「ご迷惑かけてすみません。」「別に、全然…。」

29.「皆さんは何時もこんな高いところでお仕事してるんですよね。」「え、ええ、まぁ。」「前も3階でお仕事されてましたもんね。」「え?」カミュが驚くと、少年は困り顔を見せた。「工事の最初の日に目があったのって、あなただった気がしたんですけど、人違いだったかな…。」「あ…それ、俺です。」

30.「あ、良かった!外に人が居る!ってビックリしたので印象に残ってて。」「ああ、そうだったんですね。」カミュは胸をなでおろした。魅入っていたのがバレたのではないようだ。気づけばもう屋根付近だった。「ここから上がれば屋根に上れます。」「わぁい!ありがとうございます!楽しみだなぁ!」

31.屋根に上がる仮設のハシゴは急で登りづらく、屋根の傾斜もあってあって安定しない。カミュは先にハシゴを登り、少年に手を差し伸べた。少年は躊躇うことなくその手をとった。細くて繊細な指。少年の体を引き上げながら、初めて触れた夢の少年の、軍手越しに感じた体温が、自分の中の何かに触れた。

32.奪い去りたい。目の前にあるこの笑顔も、触れている体温も、ヘルメットから覗く美しい髪も、中性的な声も何もかも。奪い去って閉じ込めてしまいたい。カミュの中で欲望がむくむくと湧き上がった。夢の中の少年が存在していたというだけで奇跡なのに満足できない。今すぐ引き寄せて抱きしめたい。

33.屋根の上に上がった少年は、臆することなく下の様子を覗きこみ、お父さーん!と叫びながら父親に両手を振っている。父親は心配そうに眉をひそめて、危ないからやめなさい!と叫び返した。カミュもまた「危ないですよ」と制する。父親のいる手前自由にはしてあげられない。少年を宥め、座るように促した。

34.少年は素直に座ってくれた。「屋根の上って楽しいですね!」「そうですね。」少年と声を交わすだけで激しく興奮した。なまじ知っている人な気がするだけに、気が緩んでタメ口になりそうだ。それから少しだけ他愛もない話をした。永遠にそうしていたかったが、5分ほどで幸せな時間が終わりを告げた。

35.「はぁ、そろそろ戻りましょうか。」「そうですね。」名残惜しいが二人は戻ることにした。屋根から足場に降りるところで、カミュは先に降り、先と同じように少年に手を差し伸べたのだが、少年は大丈夫です、と自力で降りようとした。しかし足元の屋根に僅かに生えたコケに足をとられ、滑った。

36.「イレブン!」カミュはとっさに叫び、駆け寄って滑り落ちる体を抱き止めた。細い体が腕の中に収まる。良い香りがした。「あわわ…ごめんなさい…」「大丈夫ですか?」「は、はい…」一瞬だけ見つめあい、はっとして視線をそらした。カミュは顔が火照るのを隠し、二人は足場を降りていった。

37.3日間の仕事は終わった。出会えただけでなく、言葉を交わし、名前を聞いた。次あの屋敷に行けるのは足場の解体に行くときだ。暫しの別れだ。ささやかな幸せを噛み締めながら、カミュは家に帰った。今夜はあの夢を見るのが楽しみだ。彼の声を知った今なら、夢の終わりの呟きも聞き取れる気がする。

38.意気揚々と眠りについたカミュを待っていたのは何時もと違う夢だった。少年は寂しそうに窓から月を眺めている。月明かりに浮かぶ横顔は美しく、はだけたシャツから覗く肌は白く輝いている。「イレブン…」カミュが知ったばかりの名を呼ぶと、少年はカミュを一瞥し、また外に視線を戻してしまう。

39.伏し目の少年は消えてしまいそうに儚げで、カミュは怖くなった。何時もの笑みを見せてほしい。「どうかしたのか?」聞いても首をわずかに横に振るだけだ。「イレブン…」もう一度名を呼んでみる。少年は「ちがう」と呟き、首を振り、「ごめん…」とだけ言って立ち上がり部屋を出て行ってしまった。

40.それからのカミュは放心状態だった。何故少年は悲しそうなのか、何故出ていってしまうのか、違うとはどういうことなのか。考える。だが答えが見つかる訳でもない。あれっきり前の夢を見られなくなった。あの微睡みの幸せな夢を。見るのは、少年が去り、月明かりの差す部屋に1人残される夢だけだ。

41.カミュは再開を待ち侘びた。足場の解体工事の時にはもう一度逢えるかもしれない。そうしたら何か変わるかもしれない。夢で会えない事がカミュを苦しめた。以前は夢を見ることが苦痛だったのに。あんなに知りたかった少年の声も名前も知ることができたのに。欲望はどこまで行っても満たされない。

42.期待や希望なんて、あっさり打ち砕かれるものだ。孤独の夢に苛まれる日々を耐え抜き、カミュが足場の解体のために少年の屋敷へ仕事に行ったのだが、全く少年の姿を見ることが出来なかった。出来る限り屋敷の中を覗き込んだが後ろ姿さえ見つけられなかった。カミュは、繋がりを絶たれてしまった。

43.住んでいる家を知っているのに、名前も解っているのに、何で会えないんだ。出会えずに終わった仕事の後で、ベッドに仰向けになって呆然と考えた。そもそも夢にしか居なかった少年と現実で出会うなんて、一体どんな偶然なのだろう。偶然?「いや…運命か…?」まさか。自らの発言を笑ってみたが。

44.夢の中の少年と現実で出会うなんて、そんなこと普通はないはずだ。きっとこれは運命だ。彼と自分は出会わなければならない。いや、もはや運命とか偶然とか、そんなことはどうでも良い。もう一度会いたい。話をしたい。彼が存在する限り、それは決して不可能な話ではないはずだ。カミュは決心した。

45.土曜日、カミュは普段より小綺麗な服を着た。財布には普段より多目に金を突っ込む。それから普段使わない地下鉄にのり、普段降りない駅に降り立った。あの、少年の屋敷がある街、顔を鉄骨の油で汚しているような足場屋には不釣り合いなハイソな街だ。まるで外国に来たような気持ちにさえなる。

46.なんでこの街に来たのかと言えば、少年を探すためだ。もっとも、直ぐに会えるとは思っていないし、本人の家に行くというストーカーじみた事をするつもりはないが、少しは近くにいられる気分になりたかった。もしも二人が出会う運命なら、再会だって出来るはずだと、乙女のように望みを抱いている。

47.昼下がりの街は賑わっていた。身なりの良い会社員達がレストランに入っていく。メニューをちらりと見やると、カミュの1日の食費と同じくらいのお値段のランチが見えた。あの少年もこういうところで食事をしているのだろうか。生きている世界が違うことを見せつけられた気持ちだ。居心地が悪い。

48.一通り周辺を歩いて回ったものの虚しくなってきて、近くの公園に入った。公園と言っても遊具があるような場所ではなく、生い茂る木々の中に東屋があるような記念公園だ。幸い誰も居ない。カミュは東屋のベンチに腰掛け、深く息を吐く。「何やってんだかな…俺…」自省の言葉がこぼれた。

49.初日から会えるわけないと言い聞かせていたつもりだが、内心期待していた。だがこの街に来て解ったことは、夢の少年と自分では生きている世界が違うということだ。彼が現実に存在したとしても、家柄も生き方も違いすぎる。落ち込むカミュは近づく影に気づけなかった。「あれ?あの、すみません。」

50.「へ?」カミュが驚いて顔をあげると目があった。水色の瞳。あどけなさの残る顔。美しい髪。「え」「その、人違いだったらすみません。いつか僕の家の工事を」「え!あ、ああ、はい!」「良かった!人違いじゃなかったみたい!」ふわりと笑う。間違いない。あの少年だ。カミュは運命の再会を果たした。

51.「こんなところで息抜きですか?緑光浴?」「ええ、まぁ。」動揺を隠しつつ、観察する。少年は大きな紙袋を両手で抱えている。「大きな荷物ですね。」「えへへ、そうなんです。」そこで漸く気付いた。「隣、座ります?」「ああ、ありがとうございます。」少年は荷物を置き、ベンチに腰掛けた。

52.あの少年が隣に座っている。自分は夢を見続けているのだろうか。思わず少年の横顔を見つめてしまう。美しい、愛らしい。食い入る視線に少年が気づき此方を見るので、慌てて話を振る。「ここで何を?」「僕はそこの図書館に用があって。ここ1週間は缶詰してるんです。」「それで不在だったのか…」

53.「え?」「あー、いや…。こんなところに図書館あるんですね。」「うん。ここら辺で一番大きな図書館なんだ。けど僕の使いたい史料が貸出出来ないからコピー取るしかなくて。」「成る程、それでそんな大荷物なんですか…。…集めてどうするんですか?」「論文書かないといけないから。」「論文?」

54.「僕、こう見えて学者のタマゴなんです。」恥ずかしそうに笑う。「まぁ、一応学者の家系だからっていうだけなんだけどね。」「へぇ…すごいな。」あんなに焦がれた相手と一対一で世間話をしている状況にカミュは戸惑いつつ、不思議と懐かしさを感じた。毎夜の様に夢で出会っているせいだろうか。

55.「もう今日の研究は終わったのか?」「少し軽食を食べてから、また図書館です。何時もここで食べてて。」「悪い、食事の邪魔してましたか。」「いえ、大丈夫ですよ。」そう笑うが、きゅるると少年の腹が鳴った。「飯食べたらどうです?」「えへへ、はい。」少年は鞄から小さな包みを取り出した。

56.少年が上品な風呂敷を開けるとサンドウィッチが現れた。「弁当?」「うん。おうちの人が作ってくれるんだ。」公園の外には凝ったレストランがあれだけあるのに、この閑静な森の中でサンドウィッチを食べている少年を身近に感じた。そしてより一層少年を愛しく感じる。何時までも見つめていたい。

57.このまま彼が食べ終わるのを待って、それで終わりか?いや、そう言うわけにはいかない。例えどんなに細い繋がりであっても繋がりを作らねば。「これからまた図書館行くんですか?」「うん。」「…何か手伝えることあるか?」「え?」突然の提案に少年は目を丸くした。カミュは慌てて言い訳をする。

58.「いや、暇しててな。それに図書館ってのも興味あるし。」「え、けど…」「いや、迷惑だったら無理は言わねぇけど…」少年は少したじろいだが、「本当に、いいの?」と甘えるような声で確認してきた。その目は夢の中の時に見せる目に似ていた。「ああ。」快諾をすると、一番の笑顔を見せてくれた。

59.「ありがとうございます!欲しい史料の数が膨大で、途方にくれかけてたので…」「ぶっちゃけ頭悪いから難しいことはわかんねぇけど、指示してくれりゃやれるから。」「はい!あ、えっと、あの…お名前聞いても良いですか?」「ああ。俺は」初めて、惚れた相手に自分の名前を告げた。「カミュだ。」

60.「カミュ…さん…」不思議そうに名前を呟いてから、ニコっと笑った。「あ、僕はイレブンです。よろしくお願いします!カミュさん!」夢の中でも聞けなかった、自分を呼ぶ声を初めて聞いて、心が震えた。夢の印象と違わぬ姿、声。自分がどんどん、この目の前の少年にのめり込んで行くのに気付いた。

61.イレブンと世間話をしながら公園内の図書館まで並んで歩く。イレブンが自分より3歳年下であるということ。シチューが好みであること。ああ、純朴な少年そのものだ。隣で頬笑むイレブンを見つめる。優しい風に美しい髪が靡いて、それを手で押さえている。まるで絵画のような横顔に魅いられた。

62.ああ、二人きりなんて嬉しい。楽しい。だが、あんなに焦がれた少年と並んで歩いているのに、変な緊張はなかった。単純な幸せを感じる。イレブンが恐縮していないだけなのかもしれないが、とにかく人懐っこいようだ。人ったらしというか。良家の生まれにしては無防備過ぎではないかと心配になる。

63.大きな図書館の最上階へやってきた。閑散としている。カミュが珍しそうに見渡していると、閲覧席のテーブルに荷物を置きながらイレブンが説明してくれる。「郷土資料なんか使う人殆ど居ないからガラガラだよ。おかげでコピー機も使い放題なんだ。」「へぇ…で、何を手伝えばいい?」「えっと…」

64.イレブンの広げた資料をチラリと見る。「…勇者?」「うん。カミュさんは、『大樹の勇者の伝説』って聞いたことある?」「ゆうしゃでんせつ?」「そう。まぁ昔話だよ。かつて勇者が邪神を倒した!っていうの。ウソみたいでしょ?ゲームみたいだよね。」「…それを研究してるのか?民俗学ってやつ?」

65.「ウソみたいな話だけど、実は世界中で裏付けるような遺跡とか史料が出土してるんだ。」「へぇ。」「今知られてる『勇者伝説』がどこまで脚色されてるか解らないけど、少なくともモデルになった人は存在するみたいなんだ。それで今はまだその史料の解読作業中ってとこ。」「へぇ…面白そうだな。」

66.「そう言ってもらえると少しほっとするかも…」イレブンは照れながら笑う。何時間と見ていられる笑顔だ。「おっと、作業しねぇとすすまねぇな。」「そ、そうですね!じゃあ、えっと、さっきの続きをお願いしようかな。」イレブンに案内され、古ぼけた本の並んでいる棚へ向かった。少しカビ臭い。

67.「えっと、5巻の途中で。」イレブンが古書を手に取り、目次を捲る。「このサマディのところは要らないから…ダーハルーネのところを…」「ここからか?」「はい!それでコピー機の場所がこっちで…」イレブンに案内されるまま同フロアをウロウロした。本当に誰もいない。憧れた、2人きりの空間だ。

68.「じゃあ俺コピーするんで、次にコピーするとこを選んでもらってく感じで流れ作業にしましょうか。」「はい!助かります。結構大変ですけど大丈夫ですか?」「体力には自信があるんで。」得意げに笑って、イレブンを安心させてやる。そうでもしないと幼顔はすぐに申し訳なさそうな顔になるようだ。

69.カミュは頼まれた場所を淡々とコピーしていく。印刷されたものを見ても、何が書いてあるのかさっぱり解らない。勇者伝説とやらはどんな話なのだろうか。後でイレブンに聞いてみよう。コピー用紙をトントンと直しながら、少年に想いを馳せる。自分の中にムクムクと邪な感情が湧くのを感じている。

70.「これ終わりましたよ。」「ありがとうございます!」「次は?」「えっと、6巻のこの頁から…」少年が差し出してくれた本を取ろうとした時、指が僅かに触れた。「あ、」「?」少年はあまり気にならなかったようだったが、カミュはその細く美しい指を意識せずにはいられなかった。軍手越しとは違う。

71.預かった本を持ってコピー機に向かいつつ、少年を見る。真面目な顔で資料を睨んでいる。ハラリとほどけた髪を耳にかける仕草。その指。一瞬触れた指は暖かく、少年の体温を想起させる。転びかけて抱きとめた時に触れただけだけれど、あの体温が彼を実体のある存在だと知らしめてくれる。欲しい。

72.もし今すぐ、あの生真面目な言葉を紡ぐ唇を塞いで、両腕で彼を抱きしめて、柔らかな髪に顔を埋めることが出来たら、どれだけ幸せだろうか。瞼から指の先まで、優しくキスをして、ずっと探してた、とそう告げることが出来たら、どれほど楽な事だろうか。叶いもしないと解っている。だから夢を見る。

73.区切りがついたころには、辺りは暗くなり始めていた。時計を見るともう5時を回っている。5巻から始めた作業は、すでに最終巻にたどり着いていた。「あと5枚か…」ページをめくると、大きな樹と何かの爪痕のような図版が描かれている。勇者とは一体何者なのだろうか。とりあえずコピーを取り終えた。

74.「このシリーズはこれで全部ですかね。」「ありがとうございます!助かりました!」共同作業が終わることは寂しいが、心から嬉しそうな顔をされると名残惜しいと思う自分が情けなくなる。「すみません、偶然お会いしただけなのにこんなこと頼んで…。そうだ!何かお礼させてください!」「え?」

75.正直一緒に居られるだけで褒美のようなものなので、礼なんて考えてもいなかった。「別に礼なんていらないです。勝手にやっただけですし。」「けど、僕の気持ちが治まらないです。あ、じゃあ夕飯でもごちそうします!」確かに自分より経済的余裕はありそうだが、年下に奢られるのは気が引ける。

76.「いえ、本当にいいんです。」「でも…」少年の困り顔はどうしてこんなに可愛いやら。カミュはとっさに思いついた。「そうだ、じゃあ…いや、その無学で恥ずかしいんだけども、その『勇者伝説』っての、教えて欲しいんだ。少し興味が湧いて…どうだろう。」そうすればもう少し一緒にいられる。

77.「そ、そんなことでいいんですか?」少年はカミュの一見無欲に見える要望に驚く。「じゃあ、ご飯でも食べながらお話しますよ!」「いや、出来ればここで聞きたくて。ほら、資料も一杯あるし。」少年と食事をするのもいいが、今は2人きりで居たかった。夢の時だって2人きりだから、それが馴染む。

78.「本当に、そんなことで良いんですか?」「ああ。」「じゃ、じゃあ…解っているところなら。」「宜しく。」誰もいないとはいえ、閲覧席で話すのは憚られて、一応踊り場のベンチに腰かけた。「えっと…どうやって話せばいいのかな…。じゃあ、とりあえず、昔話としての勇者伝説をお話しますね。」

79.少年が話してくれた伝説の内容はこんなかんじだ。『大樹という神みたいな存在に選ばれた一国の王子は、悪魔から身を隠すためにヒッソリと隠れ里で育てられ、16歳になった時、世界で出会った仲間と共に、数々の災厄に見舞われながらも、仲間と共に宇宙から飛来した邪神と戦った。』確かに空想的だ。

80.「空飛ぶ大樹…マジであったのか?」「このあたりで、地質学的に整合性のとれない地層が見つかっているんです。古代地層の間にどう考えても年代外れな地層が挟まっていて。大樹が空を飛んでいた、とは言えませんが、局地的な大規模地殻変動があったと考えざるをえないようです。」「なるほどな…」

81.「それで、今回コピーしたのは何の研究なんだ?」「今回のは…その…まだ確証が得られてないんですけど…」イレブンは恥ずかしそうにしながら、コピーした資料を握りしめた。「勇者の仲間は6人っていう説が有力なんです。勇者の祖父、隣国の王女と騎士、賢者の里の女性2名と、さすらいの旅芸人…」

82.「でも、それだと変なんです。」「変?」「伝説によると勇者は城の地下牢から脱出しているんですが、投獄当日に穴を掘って脱出したことになってるんです。けど普通そんなに簡単には脱出出来ませんよね。」「確かに。」「誰か手引きした人が居るはずなんです。でも、居ないんです。」「いない?」

83.「その6人はその後から仲間になっているので、そこには居ないはずなんです。つまり助けたのはそれ以外の誰か。でも勇者を助けた功労者の存在が残ってないなんて変じゃないですか?伝説だとしても、すごく中途半端です。少なくとも見返りか何かは要求したはずです。」少年は可愛い顔で力説している。

84.「脱獄以外の場所でも、7人目の存在を示唆する場面がいくつかあって。なので色々な資料をかき集めているところです。」「なるほどなぁ。でも、もしかしたらすごくシャイなやつだったのかもしれないぜ?」「へ?」「歴史に残りたくねぇから名前隠した、とか。…ねぇか。」「あはは!面白いかも!」

85.適当に言ったのに少年は否定することもなくニコニコと冗談を笑ってくれる。ああ、まだ一緒に居たい。「なんかすげぇ興味出て来た。そうだ、まだ資料集めはするんですよね。」「はい、一応。」「また手伝わせてほしいんだ。」「けど」「馬鹿だから良くわかんねぇけど、そういうの結構好きだし。」

86.「でも」「俺は大学も出てねぇし、勉強なんかしてこなかったけど、なんか興味湧いてきたし、少し勉強してみるのもいいかなっていう、なんつーか、高尚な趣味っての?そういうのもアリかなって思って。つまり、手伝いっていうより趣味として手伝いたいっていうか…」中々無理くりな理由づけだ。

87.だが少年は純粋に嬉しそうな顔を見せてくれた。「ほ、本当ですか?その…僕の研究、あんまり人から理解して貰えてなくて…作業も地味だし…」確かに資料と睨みあうだけなんて地味だ。でも。「研究なんて地味なもんだろ?」そう言いきれば、少年はそれもそうですね、と笑ってくれる。喜んでくれる。

88.「えっと、じゃあ…お願いしてもいいですか?」「こちらこそ、研究の邪魔にさせてもらうことをお願いしたいところだ。」「え、じゃあ、あの…これからも、よろしくお願いします。」イレブンが深々と頭を下げるので、こちらこそよろしくと頭を下げた。…これでまた会える。2人きりの時間を作れる。


89.「カミュさん平日はお仕事ですもんね。」「土日なら大丈夫だ。」「えっと…じゃあ来週の土曜日、またこの図書館でどうでしょうか。僕午前中からいるので、お暇なときにでも。」「ああ、解った。朝から行く。」きょとんとしてから、ふふっと笑ってくれた。「あと、俺のこと呼び捨てで良いぜ?」

90.「でもカミュさんの方が年上ですよね。」「けど、さん付けとかされ慣れてねぇし、敬語使うのも苦手だからよ。」「でも…じゃあ、敬語は頑張って控えて見ます。けど、さん付けは直せないかもしれないです。」「わかった。じゃあ敬語禁止で。」「はい!…あ、うん!慣れるのに時間がかかりそう。」

91.帰りは、遠慮しまくるイレブンの荷物を強引に持って、バス停まで送った。イレブンはカミュの仕事にも興味津々で、高いところは怖くないのかとか、何階建てくらいまで足場を作れるのかとか、そんなことを聞いてくる。研究している時は大人びているが、そういう所に少年らしい純粋さを感じる。

92.カミュは家に帰り、昂揚したままベッドに身を投げた。念願のイレブンとの約束を取り付けた。再会が約束された。今朝ここで起きた時に、淡い期待をしてはいたが、こんなに順風満帆にことが進むとは思っていなかった。やっぱり2人の間には運命的なものがあるのではないか。少女のような考えが浮かぶ。

93.その日見た夢は、あの、月明かりの部屋で少年が出ていく夢だった。「どうして…」やっとあの少年と出会い、名前を呼んでもらえたというのに、何故この夢を見るのだろう。来週になれば本物の少年に逢える。そう思えば以前ほど苦しくはないのだが、美しくも哀しい横顔に居た堪れない気持ちになる。

94.カミュは月曜日から淡々と足場作りに励んだ。高い場所に上り、イレブンの家を、あの図書館を望む。あそこにイレブンがいる。そう思うだけで心が穏やかになる。今週末にはまたイレブンに会える喜び。こんな気持ちになったのは何時以来だろう。今すぐにでも会いたい。この気持ちは明確に愛だった。

95.それから数週間、土曜日はイレブンと資料漁りをした。イレブンは家で解読を進めているようだが、思うようなものは見つかっていないらしい。昼はカミュの希望で、あの公園のベンチで一緒に食べる。それから伝説の諸説についてやら、仕事の事など他愛のない話をする。カミュにとっては至福の時間だ。

96.それから2週間ほど経ち、公園の木々が色づきはじめた頃だ。「カミュさん、あの、来週なんだけど。」「おう。どうかしたのか?」「実はね、知り合いの研究者の人が、役に立ちそうな資料見つけたっていうから、その人の研究室に行きたいと思ってるんだ。カミュさんも、来てくれる?」「いいのか?」

97.「研究者でもなんでもねぇのに、そういうとこ入れるのか?」「うん。ちゃんと連絡すれば大丈夫だから。」「楽しそうだな。けど、ぶっちゃけ俺に手伝えることねぇだろうし、ただの見学者になっちまうぜ?」「いいよ。…君が一緒だと心強いから。」そんな風に照れくさく微笑まれると胸が苦しくなる。

98.ということで、来週はイレブンとその研究室があるという大学へ行くことになった。ここの最寄りの駅で9:30に待ち合わせだ。予定をスマホに入力しながら気付いた。2人でどこかへ行くというのは初めてだ。まるで、初デートのようで緊張する。しょうもないミスをしないよう気を引き締めなければ。

99.当日。予定の時間より30分も早く待ち合わせの場所につき、カミュはイレブンと大学へ向かった。大学というものに初めて入る。無駄に緊張した。「僕の研究してる時代と同年代の史料がいっぱい出て来たっていうんだ。楽しみだね!」イレブンの笑顔は何時もよりマシマシで最高に楽しい。正にデートだ。

100.「お久しぶりです教授。」「やあイレブン君。どうだい捗ってるかい?」「いえ…残念ながら。」「まぁ研究なんてそんなもんだよ。で、彼が、」「えっと僕の研究の手伝いをしてくれてるカミュさんです。」「初めまして。」「よろしくね。さて、例の史料、出してあるよ。」「ありがとうございます!」

101.研究室の中は本棚で一杯だった。本棚に本と思しきものが山積みにされている。しかしどれもこれもボロボロだ。図書館の資料とは比べようもない、まさしく古文書といったところだ。イレブンは目を輝かせてそれらを見ている。その視線の一部でも自分に向けて貰えればなぁと思わなくもない。

102.「実はね、今知り合いの大学が工事をしてるんだけど現場から遺跡が見つかったんだ。どうやら古代図書館の遺跡らしい。」「古代図書館…あ、そうか。」「確かに地理的には可能性は0じゃない。ただどうして地下にっていうところではあるね。」「確か年代記ではあの頃は雪山でしたよね。となると…」

103.イレブンは教授と話で盛り上がっているが、何を言ってるかさっぱりわからない。カミュは暇つぶしに、無造作に並べられた古文書見ていた。紙というのは相当な年月でも存在出来るらしい。電子データより優秀かもしれない。もし未来まで残したいものがあるなら紙にするのもありかもしれない。

104.資料にはそれぞれ番号の書かれた短冊が挟まっている。目に見えるものでNo.5603とあるから、かなりの資料が出てきたということだろう。盗み聞きしたところでは古代図書館とかいう遺跡の本だということだ。国宝級の貴重品だ。こんな物を直で見られる機会はそうそうない。棚をゆっくりと眺めていた。

105.目に留まったのは青いノート。表紙の皮は案の定ボロボロになっている。…心臓がドクリとなった。壊れないようにそっと手に取る。劣化した紙がホロホロと零れる。ゆっくりと近くのテーブルへ持って行く。表紙にも背表紙にも何の文字もない。ボロボロの皮に気を付けながら、そっと表紙を捲った。

106.「ウソだろ…」カミュは言葉を失った。古代文字何か知らない。今まで頼まれてコピーしてきた古文書だって微塵も読めたためしはない。なのにどうして。この青い表紙の中の、ミミズが這ったようなこの汚い文字が読めるんだろうか。どんな理屈で読めるというのか。そんなこと、あるはずはない。


107.「どうかしたのかい?イレブン君ならすっかりあっちの史料に夢中になってるけど。」「え、いや…」「おや?それかい?」「これって何です?」「解らないんだよねぇ…。今回見つかったのは図書館の資料のハズなんだよ。けど、それはどうにも図書でもない。誰が書いたのかもさっぱり。」「…。」

108.「気になるのか?」「ええ。いえ、別に何がっていうわけでもないんですけど。」「確かにね、図書なんかとは違って、確実に当時を生きていた人の『史料』だとは思うよ。一次資料ね。それを解読することで、未加工の情報を得られるって考えればかなりのお宝だね。」「なるほど…。」

109.「もし必要っていうんであれば、デジカメでスキャンしてデータにしておくよ。流石に現物のコピーは史料にダメージを与えてしまうからね。」「ですが、本当に使うか解らないです。」「いいよ、どうせ最終的には全部データ保存するつもりだから。優先的にやってあげよう。」「ありがとうございます。」

110.言葉に甘えて貰うことにした。無学な自分に読める史料。ありえないと思うが、しかし読めることは事実だ。読めばなにか解るかもしれない。それにイレブンの研究の役に立つ可能性もある。「やっとコピー以外で役に立てるかもしれねぇんだ。やれることは何だってやらねぇと…」「カミュさん!」「!?」

111.「カミュさん、どうかしたの?」「え、いや…どうだった?面白そうな資料あったか?」「うん!来週も来ていいって言われて…。カミュさんはどうします?」「勿論来るぜ。」「よかった!そうだ、ここの学食、安くて美味しいって評判なんですよ!」「そりゃいいな。」


112.念願かなってのイレブンとの食事デートだ。高くても600円という激安具合に学生が羨ましくなる。しかも向かいでカレーを食べているイレブンを眺められるという最高の状況なのだが、カミュはどうにも先ほどの資料のことが頭から離れない。雑誌ですら殆ど読まないのに、あの資料を読みたくて仕方がない。


113.翌週も、その翌週も、イレブンとこの研究室へやってきた。イレブンが資料を漁っている間、カミュは研究室の整理や何やらの肉体労働を手伝い、学食で食事をして、さらに資料を漁り…そんなことを何週間が続けて、とうとう研究室通いにひと段落ついた。その帰り道での事だった。

114.「カミュさん。この間の教授からこれカミュさん宛にってもらったんだけど、知ってる?」イレブンが厚いB4版の茶封筒を差し出した。受け取って中を見ると、あの下手な文字が見えた。「ああ、これは。俺のだ。ありがとな。」イレブンは不思議そうな顔をしている。それはそうだろう。

115.「何か気になる資料なの?」「え?いや…まぁなんだ。折角イレブンの手伝いしてるし、少し勉強してみようかと思って。」「ふーん…」イレブンに相談してみようか。もしかしたら一緒に読んでくれるかもしれない。そう考えもしたのだが、無意識にはぐらかしてしまった。

116.「古代文字の辞典とか使う?」「けどそれなら図書館でも見られるし。まぁ、イレブンの真似事だから。」「何かの資料?歴史書?」「さぁわかんねぇ。」「ふーん…。手始めに読むには難しそうだけど…。えっとね、僕が読むときに大事にしてることは、一応字面のまま受け止めること。」「ん?」

117.「時々ね、意味不明なことが出てくるんだよ。空飛ぶ大樹だって初めて解読した人は意味不明だったとおもう。意味わかんないっていうのが一杯出てくるかもしれないけど、とりあえず字面の通り読んであげるといいんじゃないかな。書いた人の気持ちそのもののはずだから。」「なるほどな…気を付ける。」

118.ちゃぶ台を片付けて、印刷されたもの広げた。少し字が薄いが読める。日記だ。日記と言っても1日1、2行しか書かれていない。それ以外には日付と天気だけで、イレブンが研究している時代のものかどうかも解らない。カミュは、疲れたことさえ忘れて、ペンを片手にそれをじっくりと読み始めた。

119.『3日。晴。日記ってのを書くことにした。あいつが金の彫像になっちまって、俺の贖罪とやらが始まって2週間くらい経った。一応、贖罪の旅が終わるまでは何となく日記を付けようと思う。面倒だから1行くらいで済ませたい。』

120.カミュは初手から戸惑った。これは本当に日記なのだろうか?妹が金の彫像にされる?どういうことだ。だが、小説にするのであればこんな体裁をとる必要もないはず。カミュは一応、イレブンに言われたとおり、まずは字面のまま読んでみようと思い、日記を読み進めることにした。




121.前半は眠くなるくらいに何もない。海賊船から路銀を盗んだり、生来の器用さを使って盗賊稼業を始めたりしたらしい。つまりこれはとある盗賊の日記らしい。だが日記のせいか、名前がさっぱり出てこない。そんなのが30ページほど続いたのだが、ある年の18日あたりから面白そうな記述が始まった。


122.『18日。晴。賢者とかいうやつから、贖罪の相手は地下にいると聞いた。地下で出会うと。本当かどうか怪しいが、現状他には何の手がかりもない。ここは騙されたと思ってするしかない。』

123.『3日。曇。投獄された。暫くはここでその運命の相手を待つことにする。暗くて文字が書けないので、暫く日記は休む。』

124.『28日。不明。流石にもう脱獄しようと思っていた時に運命の相手は現れた。地下牢で出会ったお前は、今までみたどんなやつより綺麗だった。美しい瞳は盗賊の心を燃やした。欲しい。なんとかしてお前を手に入れたい。』

125.『29日。晴。運命の相手の名前は****。珍しい名前だ。そんで、とても可愛い。自分より3つ下で、とびっきりの世間知らずだ。だが、お前の名前を呼ぶと、心が震えそうになる。****。きっと、俺はお前のことを絶対に忘れないだろう。』



126.とうとう人物名が出て来たかと思ったのだが、名前が塗りつぶされていて読めない。現物なら筆跡とかで何か解るかもしれないが、このコピーでは読みようもない。これについては今度あの研究室に行く機会があれば現物で確認をしよう。カミュはとりあえず資料にフセンを貼り、次へ進むことにした。

127.『 1日。晴。世間知らずな****は占い師に騙されてただの聖水をぼったくられていた。荒くれ者に声を掛けられてついていきそうになったり、こりゃお守は大変だ。でも、悪い気はしない。何をしたって、お前は微笑んでくれて、それで何となく俺も絆されてる。それが、幸せに感じる。』

128.暫くはその****という人物の惚気が続いている。どれだけ惚れ込んでいたんだ、と名もなき盗賊に呆れるが、思えば自分も夢の中の少年にどれだけ現を抜かしてきたことか。きっとその人物もイレブンのように人を駄目にさせる魅力があるのだろう。そう考えれば親近感も湧くというものだ。

129.盗賊はその少年と世界を旅してまわったらしい。火山や砂漠、港町など点々としたようだ。ワープする祠とか、蒸し風呂の幽霊とか、魔力を吸われた幼女とか、常識の範疇を越えた単語が一杯出てくる。そして闘技場を越え、仲間たちは朽ち果てた城へとやってきたらしい。

130.『 30日。晴。お前は亡国の王子だという。祖父ってのと、知り合いの王女ってのが言ってるんだから間違いないだろう。たしかに村人にはない気品みたいなものは感じてた。同時に、気づいてしまった。一生、お前の傍に居ることは出来ないってこと。どうすればいいのか、今は解らない。』

131.そこからの日記は、少しテンションが低い。少年たちを追って来た敵との戦いの日々がつらつら書かれている。

132.『 22日。晴。ラムダからなんか変だ。****が余所余所しいし、少し大人びたように見える。どういうことだ?元々儚げに綺麗だったけど、今は本当に消えちまうんじゃねぇかってくらいに儚い。頼むから、俺が気持ちを伝えるまでどうか消えないでほしい。伝えた後も、ずっと、消えないでくれ。どうか。』

133.そこからの日記は急展開だった。空飛ぶ大樹やら、最初の城やらを巡り、敵対していた騎士と邂逅。王に化けてた悪魔を倒して、とうとう邪神討伐が始まるらしい。「邪神討伐…これって例の勇者伝説か。」そうだとしたらイレブンに報告しなくては。喜ぶ顔が目に浮かぶ。役に立てて嬉しいと思う。

134.『 8日。曇。クレイモランに行くって言いだした。行きたくない。けど行くために俺はお前を助けたんだ。妹を助けるために。お前はどう思うんだろう。俺が妹を助けるためにお前を助けてたって聞いて。けどそれが全てじゃない。違うんだ。****、俺はただお前の傍に居たくて、それだけなんだ。』

135.『 11日。雪。怖い。けど言うしかない。永遠にはお前の傍に居ることが出来ないって解ってるのに、俺は言うしかない。そうでもしなきゃ、お前は誤解するだろ。俺はお前と居たい。贖罪が終わったとしても傍に居たい。』

136.『 12日。雪。妹を助けられた。勇者の力っていうのは凄いものだ。妹の笑顔をみて、俺の贖罪にひと段落ついたことを実感する。それから全てをお前に話した。過去のこと、妹のこと。お前を愛してること。返事はまだ貰えてないけど、たとえどんな返事であっても、俺のお前への愛は変わらない。』


137.『 15日。今日は人生で一番幸せな日だ。腕の中のお前は最高に可愛かった。』


138.「なんだこれ、惚気じゃねぇか。」どうやら15日の段階で、****と良い関係になったらしい。その後は日々その人との楽しい思い出が書かれている。「羨ましいぜ。」カミュはイレブンを想う。自分もイレブンと、こんな風に過ごせたら良いのに。

139.彼らの旅は紆余曲折ありながらも、世界の人々を助け、天空にある町や試練の里などをウロウロして、とうとう邪神と対峙するらしい。だが、流石に日記を書く余裕がなかったのか、****と出会って以降マメに書かれていた日記は、このあたりから急に日付が飛ぶようになった。

140.世界が救われたのだろうか。記録が再開された日以降、戦う記述は無くなってきた。だが同時に、楽しい思い出の記述も見当たらない。文字も今まで以上に力が入っていないようで、所々読めなくなっている。

141.『 10日。曇。俺の存在はお前にとって邪魔になる。お前は必死に俺を庇おうとするだろう。だが、お前の負担になるのは本意じゃない。お前の邪魔にはなりたくない。お前を守りたい。お前を守りたい気持ちと、傍に居たい気持ちは、両立出来ない。俺はどちらかを捨てなきゃならない。答えは、解ってる。』

142.『 11日。雨。お前の傍を離れることに決めた。俺は盗賊だ。コソ泥だ。王子を脱獄させた以外、大したこともしていない。賢者の末裔でも、名うての騎士でもない。そんな俺の為でも、お前は俺を庇おうとする。そんなの耐えられねぇ。だから、お前の傍を、離れる。どうか、赦してほしい。』

143.『 18日。曇雨。爺さんに記録から俺の名前を消してほしいと頼んだ。そんなことをする必要はないと言われたが、必要かどうかではなく、俺が消してほしいからだと説得した。邪神を倒した誉れ高い勇者の仲間に、コソ泥なんかが名を連ねていいわけがない。それに。許されないことをこれからするんだ。』

144.『 15日。晴。怒られた。お前を想っての決断だっだけど、お前は悲しそうに首をふって違うと呟いて部屋から出ていった。残りの時間を一緒に過ごしたかっただけなのに、惨めにも夜の寝室で独りになった。月明かりに照らされたお前の憂い顔はかつてないほど壮絶に美しかった。でもそんなの見たくなかった。』

145.『 31日。曇。ユグノアを離れて2週間。もう、お前と会うことはない。別れると決めた時から解っていたことなのに、俺は勝手に苦しんでる。毎夜のようにお前が夢に出てくる。お前の指の温もりを覚えてる。それら全部が俺を責める。どうして手放したんだって。俺は、耐えられるんだろうか。』

146.『 17日。曇。苦しい。お前を手放した苦しみに、自分で勝手に苦しんでる。』

147.『 24日。雨。聞いた。記憶を消す呪文があると。そんなのどうかしてる。俺にはもうお前との記憶しか、お前と繋がる方法がねぇってのに。ヤキが回ったらしい。一番大事なものを忘れることにした。だからこの日記からもお前の名前を消すことにした。』

148.『 31日。曇。生まれた国に戻って図書館に引きこもりもう3日経つ。司書を巻き込んでの大捜索は続いてる。まだ見つからない。所詮噂だ、無駄骨かもしれないけど、それでも俺は諦めない。もう、戻る道もないんだ。』

149.『 4日。雪。捜索開始から7日目。とうとう古文書が見つかった。さっそく中を確かめた。件の呪文が載っていた。これで、やっと願いが叶う。』

150.『 6日。雪。国王のお抱え魔女に呪いをかけるよう依頼した。何度も確認をされたが迷わない。俺はお前を忘れることにした。お前の名前も、声も、お前と過ごした時間も、記憶も、何もかも。情けないけど。お前と別れるって決めたのは自分なのに。お前の記憶が何時までも俺を苦しめているから。』

151.『 7日。雪。明日は呪いを掛けて貰える日だ。だが魔女曰く、記憶はその場で消えるわけではなく、封印するという形になるらしい。1000年以上経つと封印が解ける可能性があるって話だ。それだけかかりゃ、俺は死んでるし、封印も消去も変わらない。問題ないと答えた。』

152.『 8日。雨。まだ記憶は残っている。どうやら強い記憶ほど効き目が遅くなるらしい。確かに一部分の記憶が欠けてきてるから、失敗したってわけじゃなさそうだ。そう、例えば、砂漠の町とか。名前が思い出せない。いや、思い出さなくていいんだ。忘れるために魔法をかけて貰ったんだからな。』

153.『 12日。雨。最近お前の夢を見る。あの、まだ仲が良かった頃の、幸せな夢だ。宿の部屋が足りなくて、渋々を装って狭いベッドでひっついて寝た日のこと。起きた時にお前と目があって、お前は笑ってて。それで…お前はなんて言ったんだったか…わからない。思い出せない。けど、幸せだった。それだけはまだ覚えてる。』

154.『 3日。晴。記憶が少しずつ曖昧になって来た。気晴らしに山に登った。山頂から、お前の居る国を見下ろせた。その町のどこかにお前はいるんだな。そう考えれば苦しさも紛らわせることが出来そうだ。思い出は消えても、俺がお前を愛してたことだけは、きっとこの魂が忘れないだろう。』

155.『お前の声も名前も忘れてしまうだろう。もしいつか、この魔法が解けて、全てを思い出せたなら、俺はお前を見つけ出す。この高い山に登って、お前が居るはずの町を見て、どれだけ時間がかかっても、俺はお前を見つけ出す。』

156.『大樹ってのは、人の命の巡りをつかさどってるらしい。ということは俺もまた生まれ変わるんだろうか。あいつも同様に。もし生まれ変わったら…。下らねぇ。どこまで女々しいんだ。』

157.『この日記を、図書館で預かってもらうことにした。何時まで残るのか解らない。覚悟の出来ていない、情けないただの悪あがきだ。こんな下手くそな字は俺くらいにしか読めねぇだろうけど、たとえそうだとしても、残しておきたい。俺が、お前を愛してたっていう記録を。ここにだけでも。』


158.『命がめぐり、俺がもう一度生まれ、そしてこの日記を手に入れる奇跡が起きることを祈って、
未来の俺へ届くことを願う。
大事なものを捨てた、情けない盗賊、カミュより』


159.「俺は…カミュ…?」


160.刹那、走馬灯のように記憶が解放されていくのが解った。出会った時の地下牢の土臭さ、砂漠の乾いた風、彼を庇った時の痛み、抱きしめた時の温もり。封印は長い時を越え効力を失った。失われたはずの記憶が、とうとう蘇った。幸せだった気持ちも、あの、逃げようとした苦しみも。



161.土曜日、何時ものように図書館で研究をしていたイレブンの元へ行った。すっかり葉が落ち寒くなってきたが、2人になりたくて、イレブンを誘って公園へやってきた。「どうかしたの?今日は何となく雰囲気が違うけど。」「え、ああその…話があるんだ。」「話?」「ああ。…どうしても伝えたい話だ。」

162.「イレブン、その…勘違いだったら申し訳ないんだが…」「勘違い?」「だから、その」自分でも馬鹿らしいと思う。前世の記憶を持っているだなんて、オカルトにも程がある。だが、あの瞬間に蘇った記憶は間違いない。自分の記憶だ。そして目の前にいるのは、あの時愛していた勇者そのもののはずだ。

163.「この間、あの教授が俺にくれた資料あっただろ?」「うん。」「あれを読んだんだ。」「え?読めたの?」「ああ。…俺の字だからな。」「君の?けどあれって、」「…もう数千年前の俺の字。なんて、通じるか?いや、夢物語っていうかもしれねぇけど。実際俺の頭がどうかしてるだけかもしれねぇけど。」

164.「その…あの日記、お前の探してた7人目の日記らしいんだ。」「…。」「勇者との旅について書かれてて…勇者を脱獄させたときのこととかも書いてあって…。」「…それで?」「…俺は思い出したんだ。あの時のこと。嘘みたいだろ?自分でも信じきれねぇけど、でも、全部思い出したんだ。」「…。」

165.「俺は勇者の爺さんに、記録から俺の名前を消すように頼んだ。日記ではコソ泥だからって書いてあるけど…本当は俺が勇者のことを忘れたかったからだ。そうでもしねぇと、王子を諦められなかったから。勇者伝説に7人目が載ってねぇのは、情けねぇ盗賊の自己満足のためってことだ。悪かった。」

166.「王子の為にって建前で別れ話をしたら、そのまま喧嘩別れになっちまった。…しかも、別れたら別れたで、毎夜のように夢に見て、触れてた温もりが忘れられなくて、王子に名前を呼ばれてる気さえして…。世界中に王子との記憶が残ってて、懐かしい景色を見るたびに、自分のやったことへの後悔に苛まれた。」

167.「だから、忘れる魔法をかけてもらうことにした。記憶を封印するんだって。全て忘れちまえば、苦しみから解放されると思った。けど、実際のところ、簡単には忘れられなくて、記憶から王子が消えていくのが苦しくて…結局どれもいばらの道だった。あの日の夜の、辛そうな横顔が忘れられなくて、苦しかった。」

168.「自分だけが、苦しかっただなんて思わないでよ。」

169.「え?」「…僕は悔しかった。君はずるい。」「なにが」「ずるいよ。自分だけ記憶無くすとか。僕がどれだけ辛かったかなんて、知らないでしょ。」「イレブン…?」「傍に居てくれるって言ったのに離れていくし、僕のことは忘れるし。最悪。ものすごく待たされた。」「あの」「カミュのバカ。」

170.ビックリして隣を見れば、イレブンは泣きそうな顔をしていた。「カミュのバカ。」「え、おい…」「おじいちゃんに聞いたもん。あの呪文は1000年で解けるって。でも全然思い出さないし。あの後再会したんだよ?覚えてないでしょ?」「え…?」「なのに、君、僕の事まるっと忘れてて…悲しかった。」

171.「カミュの中にもう僕は居ないんだって。…君に忘れられるのは2度目だったけど、何度経験しても慣れっこないよ。『お前の事忘れてごめん』とか言ったのに!ばか!いじわる!」「ちょ」「…でも…お互い様なところもあるから赦してあげないこともないけど…。君のお蔭で僕も全部思い出せたから。」

172.「ねぇ。覚えてる?僕が屋根に上って、降りるときに転びそうになったでしょ?」「ああ最近の話か。」「うん。…あの時、君、僕のこと呼び捨てにしたんだよ。僕、まだ君に名乗ってなかったのに。」「え、あれはその…盗み聞きしてて」「あの時君に呼ばれて…僕はその時に全部を思い出したんだよ。」

173.「その時まで、僕も記憶は結構曖昧だった。けど、君に呼ばれて全部思い出した。でも、僕のことを忘れてしまった君と居るのは正直辛かったし、全てを忘れて新しい人生を歩むのが正しい気もしたから」「そんなの…間違ってたんだ。そうだろ。恋人に苦しい思いさせるのが、正しいことなわけがねぇ。」

174.「俺は、間違ってた」「…。」「お前の傍にいればお前が苦しむって思った。だから身を引いたはずなのに、お前のことを覚えていることが苦しくて、俺は逃げちまった。本当は、お前の傍にいたかった。お前の隣で、ずっと、愛し合っていたかった。お前を信じれば良かった。なぁイレブン。身勝手なんだけどよ。」

175.「愛してる。あの頃から。今も。ずっとだ。愛してる記憶だけは、ずっと、忘れなかった。」

176.「僕の事、忘れてたくせに良く言うよ。」イレブンは拗ねた声で言い退けて、ぷいっとそっぽを向いた。「…忘れられるの嫌って言ったのに。そんなの求めてないって言ったのに。カミュはバカだよ。僕がどれだけ泣いたと思ってるの。」「ごめん。」「…赦してほしい?」「叶うのなら。」「そしたら…」

177.「ぎゅってして、あの時みたいにぎゅって、して。」そっと歩み寄って、細い体を抱きしめた。あの時と同じようにイレブンの方がすこし背が高い。やわらかすぎる髪がくすぐったい。強く抱きしめてから、少しだけ見つめ合って、イレブンが目を瞑ってくれるので、そっと、唇に触れた。あの頃のように。

178.初めてしたはずなのに、とても懐かしい。調子に乗って舌を入れると、腰を叩かれた。「もう!」「悪い。けど、あの時は普通に入れてただろ。」「っ!だ、だからって!」イレブンはあの頃のように顔を真っ赤にしている。やっぱり、何度見てもこの人が一番愛おしい。もう一度しっかりと抱きしめた。

179.大人しく抱きしめられているイレブンがか細く呟いた。「まだ、こうしていたいね。」陽が落ちてきて、頬を撫ぜる風が冷たくなってきたが気にならない。時々見つめ合って、その度にキスをして、指をぎゅっと握れば、あの頃の2人に戻れた。別れたあの日から、一体どれだけの夜が過ぎたのだろうか。

180.「冷えるだろ?そろそろ帰ろうぜ?」「…もう?」「ああ。お前に風邪をひかせるつもりはねぇし。」「…。」「それとも、うち、寄ってくか?」「君の家?」「ああ。外よりはあったけぇよ。…昔みたいに洞窟じゃねぇし。」「あはは!そうだね。今も洞窟住まいだったらビックリだよ。」「だな。」

181.カミュはイレブンの手を引いて、家まで連れてきた。時間は午後6時を回ったあたりだ。「お邪魔します。ほんとだ、ちゃんと屋根がある。」「屋根は前もあっただろ。」ちゃぶ台を挟んで座る。手を握り、見つめながら、思い出を語り合った。環境は変わったのに、2人の気持ちはあの頃と変わらない。

182.ちょこんと正座をしているイレブンを見つめる。意味を込めた視線に気付き「…なに?」とからかう様に笑う。この顔にどれだけ茶化されて来たことか。「期待してるの?」「何を。」「何かな?」「おい。」「ふふ。」「…お坊ちゃまの台詞じゃねぇだろ。」「僕は何も言ってないよ?」「っ…たく。」

183.「なぁ。」「なに?」「…泊まりは無理か?」「…無理じゃないって言ったら、このまま食べられちゃうの?」「…お前が居て、何もすんなって無理なんだけどよ。可愛くてたまんねぇし。」「変態。」「はぁ!?唆したのお前だろ。」「そこは、『いきなりそんなにがっついたりしねぇよ』くらい言ってよ。」

184.「俺がそんなに遠慮しいな性格だとでも思ってたか?」イレブンはポカンとしてからふふっと笑う。「そうだね、盗賊だもんね。」「だろ?」イレブンの隣に座り込んで、細い体を引き寄せた。「なに?」「キス。」熱いキスを交わしながら、腰を撫でるとビクリと震える。あの頃と同じだ。気持ちが昂る。

185.「王子。どうか体の触れる許しをくれ。」「王子じゃない。」「いや、あの時のあの夜は、お前は王子だっただろ。」「カミュ…」「あの日、お前が去っていって寂しく一晩過ごした埋め合わせに…お前を抱かせてくれよ。あの時、全てを捨てて、愛し合いたかった。だから」「うん…。いいよ…ゆっくり…ね?」


186.失った時を埋めるために。あの夜の続きを。


187.「カミュの字きたない!」「しょうがねぇだろ独学なんだから。日記読まれるとか個人情報とかねぇのかよ!」「この頁惚気ばっかり!恥ずかしい!」「こっちの台詞だ!つーか、関係ないとこまで翻訳すんな!」「しょうがないじゃない!7人目の仲間の未加工記録だよ!?翻訳しないと意味ないもん。」

188.イレブンの研究の為なら、と思うが、恋人のことを惚気まくった日記を恋人に読まれるというのは何にも代えがたい拷問だ。「一部分でいいだろ。」説得を試みた時、電話が鳴った。「あ、教授からだ!」件の教授からの電話らしい。「はい、イレブンです。…え!本当ですか!?はい!はい!見たいです!」

189.興奮気味に電話を切った後で、内容を聞いてみる。「どうした?」「出て来た資料の中に、クレイモランの宰相が書いた記録が出てきたんだって!そこに7人目の名前が載ってるみたいだって!大発見かも!」「マジかよ!…つーことは、この日記、無かったことにしちゃだめか?」「ダメ!」「マジか…」

190.「おいカミュ、昼だぞ」「へーい。」イレブンが必死に人の惚気日記を訳している間、カミュは今までと変わらず足場を組んでいた。今日は高層ビルだ。広い世界が見える。「怖いもんだな、世界はこんなに変わっちまってるぜ…」あの日、山に登ってイレブンの国を見下ろした時のことを思い出した。

191.高層の足場に上るたび、こうして見下ろして、夢の中の少年を想っていた日々は、過去の自分が記憶の封印に抗った結果なのかもしれない。そしてあの日記を図書館に残したことで、全てが、今につながった。「本当に、本当は、忘れたくなかったんだ。そうだろ?過去の俺。こんなにヒントばら撒いてよ。」

192.スマホを見るとイレブンからメッセージが入っている。『カミュの字が汚くて読めない場所があるので、今度カミュの家に行きます。おそわないでね★』舞い戻ってきた幸せな時間を噛みしめる。「今度は、絶対にお前を悲しませねぇ。」かつての風景に想いを馳せ、カミュは、蘇った記憶に誓った。(了)

























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